私の祖父、父の趣味はガーデニングで、特に父は珍しい植物を集めては植え、退職後は朝から夕食時まで庭木、花の世話を楽しんでいました。
300坪ほどのさして大きくない庭は、その草木の種類の豊富さでは下北半島1ではないかと思われるほどで、私設植物園として学童に開放しても良いほどでした。
庭には梨、リンゴ、桃、サクランボ、キウイ、ポポー、杏、梅などの果樹があり、お腹のすいたときは木に登り腹いっぱい食べる事が出来ました。 近所の方たちは時々花をもらいに、子供達は果物を失敬するために自由に出入りでき開放的な庭でした。
私は木に登り、木から木へと枝渡りし、樹上に小屋を作っては昼寝をしたものです。 秋には枯れ草の中から落ちた果実を探し出して完熟した味と香りを楽しみ、枯れ草の太陽の温もりを感じ、心から幸福な気持ちになりました。
庭にはこの様な思い出がいっぱい詰まっていて、今でも故郷に帰っては真っ先に庭の散策をし、木々を見上げ、子どもの頃の思い出を手で触れて確かめています。
この様な環境で育ち、私もいつの間にか庭を造り、木を植えるのを楽しく思うようになっていました。 庭の草木の配置では植物の特性を知る必要があり、また草花では季節ごとの変化、樹木ですと20年後30年後を想定して植える必要があり、考えながら体を動かしていると、時間の過ぎるのもすっかり忘れてしまいます。
草花は1年ごとに変わりますが、樹木の寿命は長く、自分の思い出と共に大きく成長するため、物体としての植物ではなく、それ以上の感情を感じさせます。
父は樹木の剪定が苦手で、自然に伸びるままにしていましたが、身近な生き物の枝を切れなかったのではないかと今になって思います。
樹木でも草花でも、環境を選びます。その環境にあった植物はあまり手入れをしなくても、元気に成長してゆきますし、合わない植物は大事に育てても場合によっては枯れてしまいます。
美夏Dr.は一時期鴨川の自宅の庭にバラを植えていました。鴨川に住んでいるわけではありませんので、どうしても手入れが行き届きません。
バラは野生種に近い品種ですと、手入れされない過酷な環境でも、生き延びて元気に花を咲かせてくれます。反対に大輪の花をつける品種改良を重ねてつくられたバラは、消毒や肥料を充分に与え大事に育てれば、その手間暇に応じたきれいな花を咲かせてくれます。でも放置しておくと可哀想なことにいつの間にか枯れてしまいます。
庭はひとつの宇宙のような空間です。美夏クリニックの水槽も同じです。その中では生存競争があり、お互いのバランスがあります。人の身体も同じなのでしょう。そんなことを筑田先生のブログを拝見して感じました。美夏
posted at 2007/01/15 16:20 | kojitomika |
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